陸前高田 |復興を見守る“奇跡の一本松”

    枯死状態となっても陸前高田を見守る、奇跡の一本松 (2012.4.27撮影)。現在、陸前高田市は、震災モニュメントとして保存するために防腐処理の検討をはじめている

    東日本大震災から1年以上が過ぎた岩手県陸前高田市を訪ねた。市内に入ると、目に飛び込んで来たのは、瓦礫の山だけがそびえる光景。多くの方々の努力を持ってしても、”復興”と呼ぶにはまだまだ遠い現実がそこにあった。

    津波が奪い去った名勝地

    震災前、陸前高田市には、白砂が広がる海岸沿いに7万本もの松の防潮林「高田松原」があった。津波や潮風から地域を守る頼れる存在であり、 “白砂青松”と形容された美しい景観は、国の名勝にも指定され、毎年多くの観光客で賑わった。子どもの頃から遊び場として親しんできた市民も多い。

    その高田松原が、あの日の津波で失われてしまった。

    なぎ倒された木々、残った一本の松

    高田松原を守る会の鈴木善久さんは、自らも被災者でありながら、震災直後から被災者の世話役として避難所をかけ回っていた。震災から12日後のある日、鈴木さんは「高田松原が流されているらしいぞ…」と耳にし、いてもたってもいられず、同会メンバーの小山さんとともに現地にかけつけた。瓦礫をかきわけ、道なき道を進んだ先には、信じられない光景があった。「堤防が破壊され、松林が根こそぎ倒され、白砂の浜は見る影もない…。嘘だろって、頬をつねったんだよ…」。高田松原は、津波によりすっかり消えてしまっていたのだ。

    「震災前は緑の松林が茂り、目の前には白い砂浜と青い海が広がる、みんなの心に”潤い”を与えてくれる場所だった。松林の裏側には沼があってね、子どもの頃は、ハゼ釣りをしたんだよ。教師時代は、松林内のランニングコースを生徒と走ったっけ…。大切なものを奪った津波を、憎いと思った…」。

    鈴木さんは、変わり果てた高田松原の姿に呆然とした。そうした中、すっくと立つ一本の松を目にした。「なぎ倒された木々の中に一本だけ力強く根を張る姿を見て、本当にうれしかった。よく残ってくれたね。」と心から思った。「お前もがんばれ」。一本松が励ましてくれているように感じた鈴木さんは、「この松を守っていかなくてはならない」と、高田松原の守る会の活動を続けていくことを決意した。

    この一本松は、その後の調査により樹齢200年以上と推測され、明治29年と昭和8年の三陸大津波、昭和35年チリ地震、そして今度と4回もの大津波に耐えたことがわかった。生命力あふれる姿は、陸前高田市民をはじめ全国の人々に復興への希望と、逆境に立ち向かう勇気を与えた。そして、震災直後から”奇跡の一本松”と呼ばれ、復興へのシンボル的存在となっていった。日本緑化センター、日本造園建設業協会そして高田松原を守る会など多くの関係機関の人たちが一本松を助けようとあらゆる努力を重ねた。
    しかし、わき上がる洪水の塩害や昨夏の厳しい暑さなどが原因で、木の衰弱が進み、蘇生が断念された。

    未来への希望のシンボル、一本松

    「助けることができなくて、本当に悲しく残念です…。」一本松の前で、鈴木さんはつぶやく。

    しかし、住友林業が一本松の種子から苗の育成に成功。材木育種センター東北育種場では、一本松の接ぎ木が4本活着。4本はそれぞれノビル、タエル、イノチ、ツナグと名付けられ、元気に育っている。高田松原を守る会も、休耕田を利用し、高田松原を復元させるための松を育てようと作業に取りかかっている。
    「将来、高田松原に堤防が建設され、松苗を植える地盤ができたとき、守る会や市民、ボランティアみんなで奇跡の一本松の子孫を植えていきたい」と鈴木さんは希望を抱く。

    一本松を守ろうとした人々の努力は、奇跡の一本松の子孫が高田松原を復元させるという未来の可能性に繋がった。 現在、陸前高田市では、震災復興計画の中に、高田松原地区を「防災メモリアル公園」として整備する計画があがっている。
    「あの震災から1年以上が過ぎても、陸前高田はまだこんな状態。みんなが震災のことを忘れてしまわないように、伝えていってね」。鈴木さんの言葉が胸に沁みた。これからも仙台から、甚大な被害にあった海辺の町の現状やそこで暮らす人たちの思いを伝えていきたい。

    2012年7月時点での情報です。

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